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人生を疾風のごとく走りぬけ、今年、40歳になってしまいました。
私は東京に5人兄弟の長男として生まれ育ちました。喧嘩したことも当然、たくさんありますが、今でも兄弟は仲が良く、親、兄弟、人には恵まれて育ったと感じています。
進路については、高校3年になってから悩みました。大学に行こうかとも思いましたが、何せネクタイという何の意味があって首にぶら下げているのか解らない、あの物体が嫌いで、大学を出て社会人になり、毎日ネクタイと革靴を履くことを想像しただけで、耐えられない気持ちになり、とにかく、ネクタイをしなくて良い職業を探しました。
始めに目をつけたのは、無線通信士でした。通信士なら遠洋漁業の船に乗り、世界中を回れる(体力が無いので漁師とかは無理だと思ってました)と考えました。しかし、大学が神戸にしか無く、母さんに"家にはそんな金は無いわよ!まだ下にいっぱいいるんだからね!"と言われ断念しました。
放射線技師を選んだのは、その後に、片っ端から集めた専門学校の資料の中にあり、興味が沸いたからです。直接、学校を数箇所回り、昼間働いて学費を稼ぎ、夜、通えるという理由で、城西放射線技術専門学校という長い名前の学校に決めました。意外と苦学生だったんです。
結局のところ、この仕事は自分にはとても向いていると思っています。特に初めから医療を志した訳ではありませんが、私はアナライザータイプで技術を習得することに興味があり、また自分の撮影した画像が、患者さんの人生をも左右することがあるという点で、とても意義を感じています。
専門学校を卒業して、杏林大学病院というところに就職しました。そこで勤務して12年経ったときに、病院全体から10年以上勤務している職員を対象にして、病院を良くするために人材を育成するための講習会が開かれました。私は放射線科から選ばれ、妻は、そのとき勤務していた整形外科の看護師として参加していました。
その講習会のときに、本来、私の隣に座るはずだった彼女が、歯痛のために、座っていることもできずに、みんなから離れたところで、ただ歯を押さえて苦しんでいたのを覚えています。こいつ何のために来たんだろう?と思ったのが第一印象ですが、これがきっかけで現在に至ります。
その講習会の後、一年足らずで、たまたまクリニックオープンのために読影の研修に来られたsnowさんに声を掛けていただいて、北原脳神経外科病院へ移りました。ということで、"杏林大学を良くするための講習会"は私にとってはただのお見合いパーティーでした。
同じ環境にいても、何を見るか、何を捉えられるかで、視点は変わってくると思います。私は自己投資が趣味なので、できるだけ多くのことを吸収して、すばらしい爺さんになりたいと思っています。今までのところ、後悔するようなことは全くありません。この先も後悔のない生き方が出来たら良いなと思っています。
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